昭和四十七年十一月七日                             X 御理解第 三十六節
『日本国中のあらゆる神を皆信心すると言うが、それは余りの信心じゃ、ものを人に頼むにも一人に任すと其の人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず、大工を雇うても棟梁が無ければならぬ、草木でも心と言うたら一つじや、神信心もこの一心を出すと直ぐおかげが受けられる』                
 すぐおかげが受けられると言う一心、小唄の文句にこう言うのがある粋な文句で
「草の葉にとまるちょうちょはふた心、そして菜の花も捨てずして」と 昨日午後の奉仕の時、熊本からと言うて松村さんが導いて参って来ました、若い大工さん達が二人であるなかなか気さくのよい大工さんたち二十五と二十六歳、
 それが現在親方のところで二人一緒に下宿のようにして働いております。給料がちょつと安い、それで他の方からまあいろいろ給料きばるから、と言うようなところもあるのでしょう、又はやめると言うたら、そんな事なら給料上げるからと言うと思うとったのかもしれん。やめると親方に言うたところが、お前達がやめるならやめると言うてもいいぞと言う事であった。
 そこで松村さんのところに何とか円満に話しをしてくれと言うのでございましょう、松村さん所に二人でやって来た。そこで私はどうこうと言うよりも久留米の合楽と言うところに金光さまがござるから、そこえお参りをしてあんたどんがやめたがよかごたるなら、やめたがええ又話しをつけてそこに又戻るがよいならそこに、とに角御神意を頂いてそして決めなさいと、まあ他にいろいろとお伺いもしてよいか、してよい、そんならお参りしようと言うので昨日大工さん二人で、導いて参って来ておる。
 それでお取り次ぎをさせて頂きましたら、今の小唄の文句を頂いた「草の葉にとまる蝶蝶は二心そして菜の花も捨てずして」といわゆる、ふたまたかけておる訳である。次ぎに頂く事が、あののし袋ですね、のし袋に右の肩にのしがついてますよ、それが左の方えのしがついておるところを頂いた。
 それからいろいろ話しをさせて頂いた事です、なる程今の若い方達には分からないかもしれない、少し古風かもしれないけれども私は本当な事は今も昔も一つだと思う。考え方がいろいろ違う、まあ今時は人を雇うと言うとも雇われておる方が強いか、雇っておる方が強いか分からないようにある。どっちが大将やら分からん、いうなら雇うとる方が言うなら機嫌のとり通しでおらなければ、ぐずぐず言うなら出るぞと言うのが多い。と言うようにまあ人手も足りないと言う事、特に最近女中さんなんかは、もう本当に条件を良くしなければいわゆる辛抱しない、職人さん達もやっぱりそうらしい。少し腕が出来るとあっちこっちから給料きばるからきばるからと言うとそちらの方えぐらぐと動く訳です、そこにはもう人情もなからなければ義理もないといったような感じがする。
 なるほどそれはいくらか高くもらうと言う事は、それだけ得をする事だけれども、それだけ得をしたからと言うて本当の得になるかどうか。私は自分の持っている技術と言うものをですね、只金だけで動くような事があっては、本当の仕事が出来んのじゃないか、いうならばね、大工さん達が自分の仕事と言うものを、まあよい仕事をすると言う訳ですけれども、奉仕をする気持ちいうならば、親方にのしをつけておくと言う事、自分の仕事に。 そこからです親方も又、あんた方にのしをつける訳です。
この親方のためにひとつ本気で働こうじゃないか、と言う事になったら親方も本気であんた方を見てくれるであろう。本当にお前達が働いてくれるから、いいえ働かしてもらうからと言う、両方からお礼の言い合いのような雰囲気の中に、仕事をさせてもらうと言う事がです、私は仕事をさせて頂くところに、その仕事が生きがいであるならば、そう言う生き方こそが本当の生き方ではないだろうか。
 どんなに腕が立つとか上手とか言うてもです、これは大成する為には心が必ず伴っておらなければ出来ん、大成する人は必ずいうならばある意味での精神家である。
それで私昨日一昨日、この正義さんが事を話した、ここの記念祭が丁度大きな仕事の入札の日、入札があった、けれども御大祭だと言うのでそちらの方は捨てて、信心の方え教会の方えやって来た。昨日おとといお礼に出て来てからお届けをしますのに、そん時の入札の会がお流れになった、そして昨日おととい決定した。それもまあいろいろ問題はあったけれども、久富建設にと言う事になった。誰かれといったら文句が出たけれど、久富建設と言ったら文句を言う者がいなかった言う、おかげ頂きましたと言うお礼に出て来ました。 この人は仲仲言わば精神家である、信心も出来るですから業者間の上にも、そう言う信用がある訳です。
 なる程神の用をたせば氏子の用は神がたしてやると言う、それをじでいった訳である、そう言うおかげを頂いただけではなくて、久富建設の中心であるところの久富正義さんの人がらの信用と言うものがです、一番重きを置いておる訳である。だから人からのそうした信用と言う事が何をするでも同じ事だけれども、商売人でも職人でも同じ事だけれども大事じゃないだろうか。
 もうあれ達は金さえ出しや義理も人情も知った奴どんじゃなか、といわれたらもうそれ迄だと言う、そこで今日の話、松村さんが行って円満に話しつけたら、今度はつけてもろうた、そこでです、今迄の行きかた考え方をかえて、ひとつ本気で昭和の左甚五郎を目指さないかと私が申しましたら、二人で顔見合わせてからそうやろうじゃないかと言わんばっかりの風で昨日は帰りました。それで私が今度は腕の方を少し研かせて頂いて、まあついでに見せてもらってから、ほとほと感心してました。
 特にこの内殿関係の仕事なんかはやっぱり分かるんです、電気をつけてもろうて隅から隅まで見ていきよりましたが、少し腕を研いて、まあこの次ぎに客殿が出来ると言う事ですから、客殿の時にはひとつあんたどんが二人で請け合うてやれる位に、腕を研いておけと、それには腕が上手だけではいかん精神の方も、やはり神さまの御用をさしてもらうと言う位なところ迄高めておかなければいけないと、言うて申しました。         そう言う生き方と言うものがね、なる程草の葉にとまる蝶蝶は二心そして菜の花も捨てずして、と言うのである。ですからこの方一心とか、おすがりするのはあなただけとかと例えばその、言うてさえおればよいかと言う事、もう私共は何の仏さま神さまと言う方はたくさんござるけれども、もう金光さま一本、親代々金光さまだけだとなる程金光さまだけかもしれません。
 けれどもすぐにおかげが受けられると言うおかげが、受けられてないとするなら、それは考えなければならない、それは金光さまの信心して他の神様は拝まん参らんと言うだけではない、それはね一人に任すと言う事が大事なんだ任せると言う事。一心を出すとすぐおかげが受けられると言う一心と言う中には、私は神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだと言う自覚。私共やはり子供の時からそれを頭はあんまりよくないし、大変健康でもないし、それでこれは子供の時から考えておったんだと思うのです。
 私は金光さまのおかげを頂かんと立ちゆかんと言うものを何とはなしに持っておったんだと思う自分でーーーだから子供の時からおすがりしてきた、何様かに様とも言わん勿論金光さま一本でおかげを頂いてきた。
 とに角あなたなしにとか、あなたのおかげをいただかねば立ち行かない私であると言う自覚、だから私は金光さまだけと言う人はたくさんあると思うのです。金光さまの御信者の中にーーー迷わない、もう金光さまだけと言う人はたくさん有るけれどもです。
 又は確かにあなたのおかげを頂かなければ、立ち行かんと言うておる人もたくさん有るですからそう言う私共は神様をです、あなたなしに神様のおかげを頂かなければ、これからこれ迄は自分で出来る、けれどもこれから先を神様にお願いしますと言ったようなものではなくして、一から十迄あなたのおかげを頂かなければ、できる事ではない立ち行かない私であると言う自覚。
 まあこの辺んのところになってくると、障子一重がままならぬ人の身と言う事が分かってくる、我無力と言う事が分かってくる。確かに私共は障子一重がままならぬ人の身である、ですから神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのである、とそんなら思いながら言いながら、そんなら人にものを頼むにも一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれると言う、その任すと言う事。なる程自分は無力である、なる程障子一重がままならぬ人の身である事も分かっておる、ああたのおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事も感じておる。けれどもねそこに任すと言う事が必要である、一心を出せばすぐおかげが受けられると言う内容は任すと言う事、その任すと言う事が仲仲とっても難しい事である。  その過程としてです、なる程吾無力であると言う事、障子一重がままならぬ人の身であると言う、人間の実相と言うかそう言うものに触れて、あなたのおかげによらなければ立ち行かんのだと、だからそのあなたにです、左の方にのしをつけるような事をせずに、本当に右の方えのしをつけてしまうと言う事なんだ。
 あなたに一切合切をいうならお供えしてしまうと言う事なんだ、自分の身にも心にも、神様にのしをつけておると言う姿、いわゆる本当な意味に於いての信心生活と言う事になる。久留米の石橋先生といやあ、その当時大変なお徳を受けられた先生として有名な先生であった、ある時御本部から講師がみえてお話があった、その講題が「信心生活について」と言う事であった。
 長時間にわたってそのお話を聞かれたけれども、石橋先生も私と同じまあ無学に近いお方であった、ですから仲仲理論的な話しだったんでしょうねえ、意味が分からなかった。折角永い時間をかけて聞かれたけれども、大体先生は何を言い、何を分からせようとしておりなさるのだろうか、と疑問が出て来た。お話が難しかったいわゆる丈高かった訳です そこで御神徳を受けておられますから、神様にその事を今日〇〇先生から信心生活と言う事についてお話を頂きましたが、どう言う内容のお話しでございましたでしょうか、と言うてお伺いになった。                              そしたらね生まれたばかりの赤ん坊が、まっ裸の赤ん坊がお布団の上に休ませてあるところを頂かれた、これが信心生活だと言うおしらせであった。まあ私共が聞いただけでは分からんけれども、お徳を受けるとそれがすぐ、ああそうですかとその永い間の時間かけてお話になった内容を、悟られたとゆう事であった。信心生活とはそう言う事でありますから。それがどう言う事であるかと言うと、障子一重がままならぬ人の身である、我無力である。と言う事を教えられた。人間がこの世に生を受ける時に、それこそ切れ一寸でも握って来る者はおらんと言うのである。丸の裸でこの世に出らして頂いて身につけるその一切が、その赤ん坊のものじゃない、神様のものを身につけて来ておる、只自分は丸の裸でこの世に出て来ただけである、それが人間のいわゆる実相である、実際の姿なんだ。  そこでです段々長ずるに従って、そんなら家も建てましょう、倉も建ちました、財産も出来たと言うてもです。
その家も倉も財産も、一切があなたの御ものであると言う、いわゆる極めたところの、頂き方こそそう言う頂き方の中に生活させて頂く事が、信心生活だと悟られたと言う事。
 信心生活とは一切があなたのおかげで、立ち行っておるんだと言うことなんです、あなたのおかげで今日があるんだ、あなたのおかげで立ち行っておるんだと言う事なんです。ですからあなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだ、あなたに許されなければ私共のいわゆる生活と言うものは出来ないのだ。
 いいや米は私のもん、金は私のもんだと言うてもです、その米ひと粒でも頂く事が許されなかったら、どんなに億万の金を積んでおっても、米俵の中にそれこそ大黒様のように米俵の中にうずまっておっても一粒の米がのどを通らんと言うのであったら、もうそれは許されていない証拠なんです。神様に許されておるからこそお茶もお水も頂けるのであり御飯も頂ける、そこんところを極める事、信心とはーーー。だからこうやって頂いておると言う事でも、あなたに許されて頂いておるんだと言う頂き方なんです。
 ですからそこが分かった時にです、そんならどう言う事になってくるかと言うと、任せると言う心になってくる、あなたなしには、あなたのおかげを頂かなければ出来る事ではない、立ち行く事ではない。ほとんどの人がです、これからこれ迄は自分がするわがよかごとやる。そして何かちっと難しい事が起こって、自分でちった難しいと言うごとなってくると、そこんところだけを頼むと言うような事が神様え頼む事である。願う事であるように思うておるけれども、金光さまの信心の根本的なところから、分からせて頂くとです 一から十迄が神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う、いわゆる事実を私共が分らせてもらう。
 そこから初めてあなたなしには生きてはゆかれんのだ、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだと言う実感がうまれて来る、そこに神様の前にいつも無条件。いわゆる無条件降伏である、神様の前に無条件降伏の姿が信心生活。ですから神様が手を上げよとおっっしゃればハイ、足を上げよとおっしやれば足を上げる。さあ右向け左向けとおっしゃれば左を向く右を向いてゆくと言う生活。それを私は任せると言うのはそう言う事だと思う 神様に任せる、そう言う心の状態にならせて頂いてです。右の手を上げろと言われて、左の手どん上げとるような事をするからおかげにならんのです。
 なる程私は金光さま一心金光さま一本といよるけれども、直ちにおかげを受けられるとおっしゃるおかげが受けられてないと言う事は、なる程金光さまだけしか拝みゃあおるまいけれども、そう言う内容を身につけてからの一心であり、その一心の内容としてです。任せると言う事の出来る事によって、一心と言う直ちにおかげが受けられると言う一心はそう言う一心なんだ。
 ましてやです草の葉にとまる蝶蝶は二心そして菜の花も捨てずしてと言うようなです、言うなら二股こうやくのような信心では本当のおかげになるはずがありません。
頼むと言うたら、もうあなた一人これが大事、信心にはーーー同時にそんならあなた一人もうあなただけと言うなら、そんなら言うただけではいけん、もう身も心も任せなければいけない。それには信心の根本のところを悟らせて頂いて、一切が神様の御ものであると言うか、いわゆる石橋先生が頂いておられるそう言う事が分からせて頂くところからです、神様に委ね任せるより他に道はないと言うその道こそが、一心の道である、いうならば神様の前に無条件降伏である。そこから任せる。ここで皆さんが任せると言うのは、自分の都合のよか時だけ任せるとでしょう。右にしてよいやら、左にしてよいやら分からんから、御神意を頂いてもろうて、親先生がおっしゃる通りにせよと、それで神さま任せになっとると思うとるけれども、それは自分に都合のよい事だけを任せておるのであってです。
 そんなら〇〇さんああしなさいこうしなさいと言うたら、先生そう言う訳には参りませんと言う人が大体ほとんどではなかろうかと思うのです。
 任せると言うたらもう身も心も任せると言う事が、しかも両手を上げておる、神様の前にいうならピストルをつきつけられておるようなもんです。右に行け左に行けと言われりゃや、そうしなければ立ち行かんと言う事をです。私共が分からして頂いての、一心を出すとただちにおかげが受けられると言う事なんです。
その直ぐにおかげが受けられると言う一心の内容と言うのは、任すと言う事だと言う事を今日は聞いて頂いた。任すと言うのもただその事だけを任すと言うのではなくて、言うなら身も心も任せると言う事なんです、いうなら命も任せると言う事。
 それ程しの私は一心が出たらなる程、ただちにおかげが受けられると思いますね。  どうぞ